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カッコいい百姓、白洲次郎

涼しい目元、シャープな顔つき、白いシャツとジーンズをラフに着こなす大人の余裕。そして強い芯を秘めた、どことなく挑むような雰囲気。これほどカッコいい男性と出会ったことはないが、読者のみなさんはどうお感じになるだろうか。

きょうの主人公の名は、白洲次郎(しらす・じろう)という。

かれの人生を紹介する前に、かれ自身が語った”農業への思い”をいくつか並べてみたい。

「いろんな人から、まだ百姓やっているのかと聞かれるんだけれど、ぼくは百姓が好きですね。元来ぼくは気短の、せっかちだから、百姓が好きだと思うんですよ。魚つりの好きなひとに気短のせっかちが多いのと同じ原因でしょうね」

「ぼくはだいたい、町よりも田舎のほうが好きなんですよ。せまいところがきらいなんだ」

「農林省(現・農林水産省)で腹が立つことがあると、『お前ら、この中で田んぼに入ったことのあるやつあるか、生意気なこというな』っていうと、みんな黙っちゃう」

いかがだろうか。自由で個性的な、土のにおいのする人柄が浮かんでくる。

英国仕込みのサムライ

次郎は明治35年(1902年)、兵庫県芦屋に生まれた。かれの特徴の1つに育ちのよさがある。父の文平(ふみひら)は神戸で綿の貿易商「白洲商店」を開き、巨万の富を築いた。当時では珍しく高級自動車を2台持っていたり、たまに電車で夜おそく帰るときは、酔っ払いが乗り合わせると車内がくさくなるからといって電車1台をまるごと借り切ったり、豪快なエピソードに事欠かない人物でもあった。鼻っ柱が強い次郎の性格は父譲りなのかもしれない。

父のすすめに応じ、次郎が国外留学したのが17歳のとき。英国(イギリス)のケンブリッジ大学に入学し、26歳まですごした。次郎はここでも”らしさ”を発揮する。「せっかく英国まできて日本人と付き合うなんて意味がない」と考え、日本人留学生から声をかけられても知らん顔をしていたそうだ。

幼なじみの作家、今日出海(こん・ひでみ)は、次郎の人物像をこう表現している。
「次郎は英国で紳士道を身につけたかもしれない。少なくとも紳士道の何たるかを知ってきたと思う。だから紳士道に反するとなると彼はムキになって怒り出す。僕は紳士道をわきまえぬが、かれが紳士道を説く時、僕はサムライだなと思ってかれを眺めている」

吉田茂と親しくなる

次郎が歴史の表舞台に出るきっかけとなったのも英国だ。海外を飛び回るビジネスマンをしていた頃、駐英大使だった吉田茂(よしだ・しげる、のちの首相)と親しくなった。次郎の妻、正子(まさこ)は「吉田のおじさまは、親子ほど年の離れた、はっきりものをいう次郎のことを、最初からたいへん気に入っていらっしゃいました」と語っている。

このコンビが絶妙な連携をみせたのが、太平洋戦争直後のこと。当時、戦争で負けた日本は米国を中心とした連合軍に占領されており、この連合国側との難しい交渉を一手に引き受けたのが、吉田と次郎だった。次郎は連合軍に「従順ならざる唯一の日本人」といわれるほど、一目置かれる存在だったという。

農村に移住

前置きが長くなった。ここまでは一般的に知られている次郎像だが、筆者は別の角度からかれの人間性に迫ってみたい。

時計の針をすこし戻す。昭和15年(1940年)、太平洋戦争の開戦1年前のこと。次郎は突如、妻の正子にこんなことを言いだす。「これから戦争になる。戦争になれば食料がなくなるから、田舎に引っ越して農業をやろう」。決めたのは南多摩郡鶴川村(現・東京都町田市)。かやぶきの古民家を買い取り、田畑を耕す百姓生活に入った。昭和16年(1941年)12月8日の開戦のニュースを耳にしたとき、次郎はこんな言葉を口にし、いっそう農作業に励んだそうだ。

「必ず日本が負けるから。負けるとますます食料がなくなる」

戦争勝利を信じて疑わない風潮に満ちていた当時の日本で、じつに勇気がいる態度といえるのではないだろうか。時流に惑わされず、自分の目で価値を判断するー。ここが次郎の次郎たるゆえんといえる。

ぼくは百姓

戦後の次郎は実業界の仕事を手伝ったりしながらも、鶴川に住み続けて百姓仕事に精をだす。かれが耕作していたのは水田5反(5000㎡)、畑は3反(3000㎡)。「ぼくは百姓」が口癖だった。

「実はやりはじめる前までは、ほんとうの日本の農民の生活というのは知らなかったわけですよ。いまの日本の東京にいるえらい人が、その生活を知らないのと同じで、知らなかったんだ。だけどぼくは、本質的にああいうお百姓なんていう人が好きなんだ。お百姓にかぎらず、運転手が好きだし、自分の会社にいても、運転手や職工が好きだったりすんだよ」

「少しキザな言い方だが、百姓をやっていると、人間というものが、いかにチッチャな、グウタラなもんかということがよくわかる」

百姓仕事のかたわら、近所の子どもたちを集めて英語を教えることもあった。近所に住む石川洋一郎さん(81)は教え子の1人。「白洲さんのお宅にはよく遊びにいったなあ。チョコレートがおいしてくね。その時分の僕らのおやつなんてイモだから。白洲さんはおだやかなひとでした」。同じく近所に住む神蔵喜代勝さん(77)は「砂ぼこりをまきあげながらポルシェを運転している白洲さんの姿が忘れられない」と懐かしむ。

カントリージェントルマン

東京商工リサーチが2017年に実施した調査によると、日本にある297万社の社長が多く住む街のトップは「東京都港区赤坂」だそうだ。次郎ならこの調査結果をどうみただろうか。

次郎は「カントリージェントルマン」という英国紳士の暮らし方を提唱していた。かんたんにいうと「ふだんは田舎に住んで百姓仕事を楽しみ、ごくたまにロンドンの別宅を訪れる」という暮らしぶりのこと。日本の富裕層の場合、東京商工リサーチの調査が示すように、ふだんは東京都心に住み、たまに軽井沢や伊豆などの別荘を訪れるというスタイルが主流だが、次郎の提唱する暮らし方は比重の置き方が逆なのだ。読者のみなさんはどうご覧になるだろうか。

野人であり、ロマンチストであり、紳士である白洲次郎。いろんな表情が混ざり合ったかれの個性には、ひとを惹きつける強い磁力があるように思えてならない。

<敬称略、年齢は取材当時。コメントは河出書房新社「文藝別冊 白洲次郎」から引用した>

★編集後記★

◇ある人物に興味を持ったとする。その人物の実像に迫るにはどうしたらよいだろうか。筆者はなるべくその人物の周辺をあたるようにしている。

◇たとえば、夏目漱石。鏡子夫人が書いた「漱石の思い出」という本が抜群に面白い。ここで書くのを憚られるほど、辛辣かつ客観的なことばで漱石を表現している。文豪が外ではけっしてみせることがなかった横顔を垣間みることができる。

◇その意味で、白洲次郎のリアルを知るには、正子夫人のことばに耳を傾けたい。彼女はこんなことを言っている。「子供に対してはひたすらいい父親でしたね、優しくて。どうしても叱らなければならないことがあるときは私に、こう言ってくれ、と押しつける。自分は憎まれ役はやらなかった。嫌われたくなったんでしょう。ずるいわよね」。カッコいい男にも弱点があった!?

筆者略歴

中戸川 誠(なかとがわ・まこと) 1985年兵庫県生まれ。日本経済新聞社の記者として10 年間、BtoC企業、エネルギー問題、農業政策などを取材後、2017年にアグリメディア入社。水田の畑地化プロジェクト、農教育事業の立ち上げ、農業参入企業へのコンサルティングなどを推進する。現在は社長直下で新規事業を企画・実行する流通経営支援室のマネジャーとアグリメディア研究所所長を兼務。太陽光発電で売電しつつ、パネル下で農作物を生産する「ソーラーシェアリング」に関心。週末は100㎡超の畑で野菜を育てる農夫。ご意見等はkikaku@agrimedia.jpまで

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